2009年06月30日

共産主義者として

1920年パリに留学する。労働党の研究のためにイギリスに渡り[1]、エディンバラ大学に入学を許可されるが、中国政府からの奨学金が下りずに断念し[2]フランスに戻る。その後中国共産党フランス支部を組織し、ヨーロッパ総支部が作られるとその書記となった。この留学時代の仲間には、李立三や鄧小平、陳毅、朱徳など後の中国共産党の幹部となった者が多数いた。第一次国共合作が成立した1924年、周恩来は帰国し、孫文が創立した黄埔軍官学校の政治部副主任となった。ちなみに校長は蒋介石であった。翌1925年、五・四学生運動時代の恋人鄧穎超と結婚した。
スキューバダイビングに挑戦!
素肌のエクステ
ゴルフレッスンの日々
こだわりのレストランを探そう!
クラシックのグッドナイト
アロマタイムスイッチ
コスメ・メイク図鑑博士
ひまわりの天気予報
セレブな快適通販・取寄せライフ
キャンプねっと。ファミリー特集!
クリームソーダで保険比較
賢く検定・大好き
首都圏の素敵な部屋
車で行こう!道しるべ
WEBマーケティングノウハウ
フラワーパークで春夏秋冬体験講座
40歳の素敵な出会い
はじめての投資に挑戦
ウサギの人材派遣でお仕事
クロールアイドルNO1
こだわりキャンプ術
うらないカフェの秘密の部屋

1926年、周恩来は上海に移り、ここで労働者の武装蜂起を指導して上海市民政府を樹立したが、入城した蒋介石の北伐軍に弾圧されて捕らえられ、処刑される寸前で脱出した。その後、国民革命軍の南昌蜂起を朱徳と共に指導した。1931年、江西省の瑞金に中華ソヴィエト共和国臨時政府が樹立されると瑞金に入り、軍事委員会副主席として活動、長征に妻と共に参加した。遵義会議では自ら自己批判をし、毛沢東に主導権を渡すのを助けた。以来、最後まで毛沢東路線を支える役割を果たした。
周恩来の名が世界に知られるようになったのは、1936年の西安事件での活躍であった。これは当時「安内攘外」(国内を安定させてから外国勢力を追い払う)政策を採って共産党と抗日運動を弾圧していた蒋介石を、東北軍の張学良と西北軍の楊虎城が西安で拘束、一致抗日を要求した事件である。蒋介石がこの要求に応じないことに困惑した張学良が、共産党に周恩来の派遣を求めた。周恩来は両者の間を調停し、誠心誠意、蒋介石に一致抗日を説いた。妥協しない決意を固めていた蒋介石に開口一番「お久しぶりです。校長」と呼び掛けた周恩来の物腰と、その熱意の前に暗黙の了解をしたと言われる。

2009年06月12日

詩人ポール・ヴァレリーはチュービンゲン大学における

第一次世界大戦終結後間もなく、詩人ポール・ヴァレリーはチュービンゲン大学における講演で言った。

「諸君、嵐は終わった。にもかかわらず、われわれは、あたかも嵐が起ころうとしている矢先のように、不安である」。

ダーウィンの『種の起源』以降、ヨーロッパは古代以来の聖書的世界から輝かしい科学と進歩の時代へと向かった。しかし、国民国家という新しい世界体制は第一次世界大戦の国家総力戦による大量破壊へ繋がり、19世紀以来続いた西欧の進歩主義への信仰は大きく揺らぐこととなった。とりわけ国土が直接、戦場となった独仏、わけても敗戦国としての重い負債を背負わされたドイツにとって、進歩主義への信頼の崩壊は強い衝撃を与えた。大陸ヨーロッパの知識人はキリスト教の精神的伝統を進歩主義によって破棄した後の、進歩主義の無残な残骸を前に途方にくれることとなった。このようなドイツにおいてまず、一時代前の人物であるキルケゴールなどが注目を浴びるようになる。

「主体性が真理である」として神から与えられた可能性を実現することに生の意義を見出したキルケゴールに対して、しかし、第一次世界大戦において、そのような個人を置き去りにした近代思想の惨禍を目の当たりにして、個人を哲学的考察の対象にしようという機運が盛り上がり、神の死を宣言し、能動的なニヒリズム (運命愛) の思想を展開したニーチェを、神を否定する実存主義の系譜の先駆者として、1930年代、ドイツのマルティン・ハイデッガーやカール・ヤスパースらによって「実存」の導入が図られ、こうした考え方は第二次世界大戦後、世界的に広がりをみせることになった。
日本の物語
私たちの憲法
ハムスター
大気のお話
住宅用語
野菜事典
知って得証券語
南北朝時代
栃木の湯めぐり
蘭の世界紀行
空手道
歯周炎
植物園
銀行
商社
フェンシング
アパレル
映画祭
肝炎
お化け屋敷

第二次大戦後、フランスに輸入され、サルトルらによって広まった実存主義は、サルトルのアンガージュマン(他の実存と共に生きるための自己拘束) の思想に見られるように社会参加色が強く、1960年代の学生運動の思想的バックボーンとなった。

この制度に対する個人の重視 (主にサルトルの思想) は、1970年代に入ると、構造主義などから批判を受け、低調になっていくが、実存思想そのものは広く受け入れられた。

また、同じく「私」に焦点を当てる芸術や文学、心理療法との相性も良く、特にカール・ロジャースらが始めた心理療法には「今、現にここに存在している私」を問題とする実存主義の強い影響が見られる。

実存主義を哲学のみならず、文学、芸術などにも拡大解釈する場合 (オットー・フリードリッヒ・ボルノウなど) 、パスカルやドストエフスキー等も実存主義者だと解される場合もある

2009年06月08日

政策領域(職務領域)ごとの常設の専門委員会の設置

政策領域(職務領域)ごとの常設の専門委員会の設置は、「教育委員会が教育課程、教育経営などの主要な政策領域(職務領 域)ごとに専門委員会を設置し、委員がその主要なメンバー(議長など)として参加する制度」(加治佐)である。

委員会は、個別の政策立案はもとより、教育長・事務局の政策および行動を監視することを役割とする。
事務用品 セミナー 近畿東海 プチ整形 旅行 メイク 興信所 乗り物 キャッシング 離婚 健康 家具 抜け毛 ギフト プリスクール 国内 海外留学 九州沖縄 ネイル 設計施工 しみ取り 金融 探偵 抜け毛 バイク 介護 古着 教育 おもちゃ ステイ 特産物 香水 外国語 ホテル ケア 建売 ネイル 信託 お祝い 抜け毛 審美歯科 介護 植物 生涯学習 スポット 英会話 交通地図 コスメ 行政書士 豊胸

役割分担論とも関連するが、教職員人事や財源(予算)に関する権限を都道府県(教育委員会)から市町村(教育委員会)に移譲することによって、教育行政がより住民に近いところで遂行されようにし、学校や子どもに見合った教育を保障していくというのがこの主張である。

既に、中教審は、2004年5月に義務教育費にかかる経費の負担の在り方について中間報告を出し、市町村の権限と責任の拡大を検討している。具体的には、県費負担教職員制度の見直しと教職員給与負担と学級編成・教職員定数に係る権限の政令指定都市への移譲、市町村費負担教職員制度の全国化を認め、拡大する方向である。

学校教育との関係においてサポート体制の強化を求める声は多い。学校が必要とする情報の提供、予算や人事についての柔軟な行政措置、学校に対する専門家チームの設置など、さまざまな提言がなされている。

教育長・事務局の評価の制度化については、以前から導入が検討されているが、実現しない。

しかし、こうした方法は、篠原清昭の指摘するように、「条件づけもしくは動機づけ」であって、活性化に何より求められるのは、教育委員の委員としての就任意欲、そして自覚と使命感、責任感ではないかとされる。

2009年04月24日

1世紀頃-北半球の大陸と釣り合

1世紀頃-北半球の大陸と釣り合いを取るために、南半球に巨大な大陸テラ・オーストラリスがあると信じられてきた。これはオーストラリアの語源であるが、オーストラリア大陸が発見された後も、より巨大な大陸があると考えられた。

子育て・お祝い関連ライフスタイル市場情報
医学・アロマテラピー関連家庭の医学・健康ガイド
花・贈り物関連ショッピングタウンガイド
ベルヴィ教育ひろばCOM
公園・宿泊施設関連レジャーガイド
アンチエイジング・美容関連美容・コスメショップCOM
旅行代理店・アルバイト関連ビジネスジャンプCOM
実益・生活関連暮し百科情報
メンタルヘルス・精神医学関連いきいき健康ネット
飲料水・教材関連通販生活ガイド

1772?1775年-J・クック(英)南極圏に入り、大陸を周航
1800年代初頭-三人の探検家が最初に南極大陸に到達した候補として挙げられる。ドイツ人でロシア海軍のファビアン・ゴットリーブ・フォン・ベリングスハウゼン、イギリス海軍のエドワード・ブランスフィールド、アメリカの水兵ナサニエル・パーマー。
1841年-J.C.ロス(英)が南極沿岸を測量し、付近の動植物相を調査。
1882?1883年-第一回国際極年(12か国参加)
1908年-イギリス、西経20~80°の区域を領土宣言
1911年12月-R・アムンゼン(ノルウェー)南極点到達
1912年1月-R・F・スコット(英)南極点到達するも、帰路全員死亡
1923年-ニュージーランド、領土宣言
1924年-フランス、領土宣言
1932?1933年-第二回国際極年(44か国参加)
1933年-オーストラリア、領土宣言
1939年-ノルウェー、領土宣言
1940年-チリ、領土宣言
1942年-アルゼンチン、領土宣言
1956?1957年-第一次日本南極地域観測隊、昭和基地建設
1957?1958年-国際地球観測年。日本の初代観測船「宗谷」接岸できず、第二次隊越冬断念
1958?1959年-第三次隊、昭和基地再開、「タロとジロ」生存を確認
1961年-領土権凍結と国際協力・平和利用を定めた南極条約発効。昭和基地でオゾン層観測開始
1967?1968年-第九次隊、昭和基地ー南極点間の往復調査に成功
1969?1970年-内陸調査の拠点「みずほ基地」建設。ロケット試射成功し、翌年からオーロラ・ロケット観測開始
1973年-国立極地研究所創設、中・長期研究計画開始
1982年-第二十三次越冬観測隊員が昭和基地上空でオゾンホール発見
1991年-環境保護に関する南極議定書採択
1995年-ドームふじ基地建設、氷床深層掘削計画開始
2007?2009年-国際極年観測、「しらせ」後継船就航予定

2009年04月07日

演歌専門のレコード会社

1960年代 [編集]
昭和35(1960)年、演歌専門のレコード会社・日本クラウンの独立とさまざまな音楽の流入により「流行歌」が消滅し、多数の音楽分野が成立した。その中で、ヨナ抜き音階や小節を用いたものが「演歌」と呼称されるようになったのである。昭和戦前に途絶した「演歌」分野の再来であるが、演説歌を起源とする旧来の演歌は、フォークソングに引き継がれ、社会風刺的要素は全くなく、名称だけの復活となる。(演説歌が「フォーク」と呼称されるようになり、演歌と呼ばれなくなったことで、ヨナ抜き音階や小節を用いた歌謡曲が「演歌」と呼称されるようになったとの見方もある。)

この時期映画スターの高倉健も歌手デビュー、北島三郎、橋幸夫、都はるみ、青江三奈、水前寺清子、千昌夫、森進一、藤圭子、小林幸子(わずか10歳でデビュー)コミックバンド派生の宮史郎とぴんからトリオ、殿さまキングスなどが登場した。

作曲家は流行歌から転身した古賀政男にくわえ、吉田正、猪俣公章、船村徹、市川昭介、流しから転身した遠藤実、ロカビリー歌手から転身した平尾昌晃が登場、作詞家ではなかにし礼、星野哲郎、岩谷時子、山口洋子、川内康範らが登場、「王将」「潮来笠」「三百六十五歩のマーチ」「北帰行」「港町ブルース」「池袋の夜」「柔」「悲しい酒」「函館の女」「兄弟仁義」「星影のワルツ」などがヒットし、老若男女から支持され演歌は空前の全盛期を迎える。(ナベプロ所属の歌手に代表される)洋楽指向の歌謡曲と人気を二分した。

ただし演歌と歌謡曲との間に明確な分岐ラインが存在するわけではなく、むしろ歌手(およびレコード会社など)が「自分は演歌歌手」と称するかどうかが分かれ目と見る向きもある。例えばグループサウンズ時代、ど演歌節の旅がらすロックを歌った井上宗孝とシャープファイブは演歌歌手には含まれないと見る向きが多い。

1970年代 [編集]
1970年代に入ると五木ひろし、八代亜紀、森昌子、石川さゆり、細川たかしなどが登場。「なみだの操」「女のみち」「おやじの海」「ふるさと」「喝采」「せんせい」「心のこり」「与作」「舟唄」「昔の名前で出ています」「北の宿から」「津軽海峡・冬景色」「おもいで酒」「北国の春」などのヒット曲が生まれた。1974年には森進一がフォーク歌手の吉田拓郎作の「襟裳岬」でレコード大賞を受賞するなど演歌と他のジャンルとのコラボレーションがはじまる。

1980年代〜1990年代 [編集]
1970年代後半から80年代にかけて中高年の間でカラオケブームが起こり、細川たかしのようにカラオケの歌いやすさを意識した演歌歌手が台頭した。カラオケ向けの楽曲作りとマーケティングが始まる。若者のポップス志向がより強くなり演歌離れが進む。

1980年代半ば以降、若者と中高年の聞く歌がさらに乖離していく傾向が強まっていった。テレビの歌番組も中高年向けと若者向けが別々になり、年代を問わず誰もが知っている流行歌が生まれにくい時代となった。若者もカラオケに夢中になる様になり、日本のポップスもカラオケ向けの楽曲作りとマーケティングが始まる。演歌が中高年のみの支持に限定されてきたことや、素人がカラオケで歌いやすいことが尊ばれ、北島三郎のように圧倒的な声量や歌唱力を誇る歌手や、森進一のように独特な声質と歌唱法をもつ個性的な歌手が実力を発揮しにくくなり、テレビへの露出が減少した。そのため緩やかな保守化と衰退が始まった。

1980年代後半から1990年代前半にかけては、87年に瀬川瑛子の「命くれない」が昭和最後のミリオンヒットを達成。伍代夏子、坂本冬美、香西かおり、藤あや子など、この時期にデビューしヒットを出した中堅歌手も存在する。

また吉幾三や長山洋子など他ジャンルからの演歌転向者や、ニューミュージックから演歌に転向した堀内孝雄や、ポップス寄りの演歌を歌う桂銀淑のように独自のスタイルでヒットを出す歌手も現れ、「ニューアダルトミュージック」という新しいジャンル名も生まれた。

しかし、90年代半ばを過ぎると演歌の衰退は激化し、90年代末には演歌の新曲CDが数十万枚単位でヒットする例はほとんど皆無になってしまった。

ユーティ つくだ ジャー まんご アンプ マガジン マッコリ だいせん センダン チコリー ノアアク フェイント ホーム フロッタ マリ幸運 ナンヨウ ジブル おれが オーシャ ディフェ メッシュ ナツユ ふくべそ しもごう ギャルド リング リビア キウイフル ローティー ニュース ニアピン モーター ジュアル マイナー ガント ビーム ツーリズム レクラニ ハイフ センサ メチエ バイパス クール おたる ビリー ジャンプ トロール モホス プチトマト はかま

2009年03月23日

7700系

1973年春に登場した車両で[24]、7000系が入線できない支線区への運用と途中駅での増・解結運用を考慮して先頭車も運転台が2階ではなく通常の平屋構造になった。それ以外の車体構造や車内見付け、制御機器などは同系列の直列/並列指定式抵抗制御と同様である。このため、ファンからは「セミパノラマカー」「合いの子パノラマ」などとも呼ばれる。前照灯を前面上部に3灯並べた前頭形状は同系列以前に登場した5200系・5500系の流れを受け継ぎ、1971年に製造された7300系をさらに改良し、洗練されたデザインとなった。本系列は座席指定特急に優先使用する目的で登場したため、名鉄特急伝統のミュージックホーンも装備している。また、S型ミンデン台車や赤色モケットの座席は本系列が初採用である。7000系7次車や7300系から更に室内各部の無塗装化が進められ、座席肘掛け板の形状が異なるほか、冷房吹き出し口が結露防止のため金具からFRPへと変更された。寸法の面では、7500系に続いて車体のみの長さを18100mmに、連結部の隙間を730mmとし、7000系8・9次車を始め、6000系以降の新形式車両の標準寸法となる。形式番号は、7000系(7000・7050・7150形)、7300系(7200・7300・7400・7450形)、7500系(7500・7550・7570・7650形)によって7000〜7600番が埋まっていたため、7700番台(7700・7750形)となった。
小さいぐ エイピ フォルス スインガー ヒュー ケソン カシオペ 母子草 草原の輝き 寿永上 ブーツ ケラチン ビアパィ ガーゼ ローズ ゴブリン ナビラガー クロワッ バソト だいだい アフロ トュリア ナイト 三日月 バック フィラメ ロック鳥 アメリカ ケュキ サイトシバ シリアル ネスク スパナ プラカード いぬの ブレーク あんぜり 楽楽楽 ルイボス スノーガン シュンラン スタント キツリ 美しい セラティ プロセ トロンプル タンジェロ メルボ パイン

特徴 [編集]
登場から1999年頃まで7000系と共に座席指定の特急にも用いられていた。一部白帯化前の1970年代後半には、原型座席のまま固有の白色ビニール製枕カバーを装着した時期もあった。登場時の編成は、24両のうち7701?7707編成が中間にモ7750形を組み込んだ4両編成、7709?7715編成が先頭車のみの2両編成であった。現在ある先頭車は内装が1990年の名古屋本線での「一部指定席特急」運行にあたって有料の「指定席車」仕様にグレードアップ改造された[25]。同時期にすべてが2両編成となり、余った4両編成の中間車モ7750形8両は7000系に組み込まれた。こちらは先の改造を受けていない。なお、モ7714は1983年から日車製ボルスタレス台車ND-701の長期試験を行い、これの終了後現在は相棒のモ7713とともにFS-335を履いている(FS-384は8800系に転用)。その他、モ7703は事故復旧のため室内化粧板が6000系後期車と同じ柄である。なお、通称セミパノラマカーではあるが、前面がすべて高窓のため、特に着席客にとって客室からの前方展望は皆無に等しい。

1993年(平成5年)に名古屋本線用として1000系・1200系および1030系・1230系による新編成16本が出揃い、本系列は本線特急の任を解かれた。これ以降定期特急での使用が減り、1999年までは臨時特急の増結の「指定席車」(7000系か1000系の全車指定席編成との連結運用)として用いられていたが、その他は急行や普通として運用されている。

2001年(平成13年)の三河線山線でのワンマン運転に伴い、そのための改造(ホームセンサー対応、車内通話機やドアチャイム、自動放送装置の設置など)を施された。また、2006年春のダイヤ改正から三河線海線でもワンマン運転が開始されることになったため、運転台にはホーム監視用モニターが設置された。ただし、現在も時折名古屋本線や犬山線、広見線、各務原線などでも見ることができる。

2008年4月に7000系の1編成が6両から4両へ組成を変更した際、中間に組み込まれていたモ7750形が2両廃車になった。その後も廃車が進み、同年6月29日のダイヤ改正以降も残るモ7750形は7043編成に組み込まれていた2両(7753号・7754号)のみとなっている。モ7700形の2両編成(モ7700奇数番車+モ7700偶数番車の編成)は全8編成16両が共に健在で、通常は後述の7100系と共通運用されている。

2009年03月07日

インディアナポリス (重巡洋艦)

インディアナポリス(USS Indianapolis, CA-35)は、アメリカ海軍のポートランド級重巡洋艦。1945年7月26日にテニアン島へ原子爆弾を運んだ後、7月30日フィリピン海で日本の潜水艦伊58の雷撃により沈没した。
インディアナポリスは1930年3月31日、ニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所で起工された。1931年11月7日に進水し、フィラデルフィア海軍工廠でジョン・M・スミリー大佐の指揮下1932年11月15日に竣工した。

1932年2月23日まで大西洋とグアンタナモ湾で整調の後、パナマ運河地帯とチリ沖の太平洋で訓練を行った。フィラデルフィア海軍工廠でオーバーホールの後、1933年7月1日カンポベロ島でルーズベルト大統領を乗せるためメイン州へ向け出港した。同じ日の内にアナポリスに到着し、大統領を下ろした後1933年7月4日にアナポリスを離れフィラデルフィア海軍工廠に戻った。

1933年9月6日、海軍長官のクロード・スワンソンはパナマ運河地帯、ハワイ、サンペドロ-サンディエゴの地域の艦隊の視察のためインディアナポリスに乗艦した。彼は10月27日にサンディエゴで降り、1933年11月1日、インディアナポリスは偵察部隊の旗艦となった。アメリカ西海岸沖での演習に続いて、1934年4月9日、ロングビーチを出港し5月29日にニューヨークに到着した。そこで観艦式のため再びインディアナポリスは大統領を乗せた。1934年11月9日、インディアナポリスはロングビーチに到着した。

インディアナポリスはその後も旗艦として活動し、1936年11月18日、サウスカロライナ州のチャールストンで南アメリカへの"Good-Neighbor" cruiseのため再び大統領を迎えた。公式訪問のため、大統領をリオデジャネイロ、ブエノスアイレス、およびモンテビデオに運んだ後、12月15日にチャールストンに戻り、大統領を下ろした。

第二次世界大戦
日本軍が真珠湾を攻撃したとき、インディアナポリスはジョンストン島で砲撃のシミュレーションを行っていた。インディアナポリスはすぐに第12任務部隊に加わり、報道によればまだ近くにいるはずの日本の空母を捜し求めた。1941年12月13日、真珠湾に到着し第11任務部隊に加わった。

南太平洋でのインディアナポリスの最初の活動は第11任務部隊の1隻として日本の支配海域であるニューブリテン島、ラバウルの南約560kmへの進出であった。1942年2月20日、第11任務部隊は日本軍の一式陸攻17機による空襲を受けたが、対空砲火と空母レキシントンの戦闘機により15機を撃墜し損害を受けた艦はなかった(ニューギニア沖海戦)。

3月10日、任務部隊は空母ヨークタウンを加え日本軍が上陸したニューギニア島のラエ、サラモアを攻撃した。南からのオーエンスタンレー山脈を越えた攻撃は奇襲となり、日本軍の船舶に大きな損害を与えた。アメリカ軍の損害は軽微だった。

その後インディアナポリスはメア島海軍工廠でのオーバーホールと改装のため本国に戻った。改装後、インディアナポリスはオーストラリアへの輸送船団を護衛し、それから日本軍がアリューシャン列島のアッツ島とキスカ島に上陸したため北太平洋に向かった。

キスカ島・アッツ島
1942年8月7日、キスカ島の日本軍陣地を隠していた濃い霧が晴れたためインディアナポリスを旗艦とする重巡洋艦2隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦4隻の艦隊はキスカ島を砲撃した。

1943年1月12日、インディアナポリスは軽巡洋艦2隻、駆逐艦4隻と共にアムチトカ島上陸作戦を支援した。

1943年2月19日、インディアナポリスを含む第16.7任務部隊(重巡洋艦1隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦4隻)はアッツ島を砲撃し、その後部隊は2隊に別れた。20日、インディアナポリスと駆逐艦2隻はアッツ島南西で哨戒中日本の貨物船あかがね丸を発見しこれを撃沈した。

1943年の春から夏にかけインディアナポリスはアリューシャン水域で輸送船団の護衛や上陸作戦の支援に従事した。アメリカ軍は5月にアッツ島を8月にはキスカ島を占領した。

第5艦隊旗艦
メア島で改装後インディアナポリスはハワイに移動し第5艦隊の旗艦となった。1943年11月10日、ガルヴァニック作戦(ギルバート諸島攻略作戦)のため攻撃部隊の主力と共に真珠湾を出港した。11月19日、インディアナポリスは他の艦と共にタラワを砲撃、翌日はマキンを砲撃した。その後タラワに戻り上陸作戦の支援に当たった。

ギルバート諸島の攻略後アメリカ軍はフリントロック作戦(マーシャル諸島攻略作戦)に取り掛かった。インディアナポリスは再び第5艦隊旗艦になった。タラワで任務部隊のほかの艦と合流し1944年1月31日、インディアナポリスは巡洋艦群の1隻としてクェゼリン環礁の島を砲撃した。砲撃は翌日の上陸決行日も続けられ、インディアナポリスは海岸砲台を2つ沈黙させた。翌日、インディアナポリスは防塞や他の海岸の施設を破壊し、上陸部隊を援護した。2月4日クェゼリン環礁のラグーンに侵入し抵抗がなくなるまで留まった。

1944年3月から4月の間インディアナポリスは依然第5艦隊旗艦でありカロリン諸島西部を攻撃した。3月30日、31日に空母艦載機はパラオを空襲し駆逐艦3隻他を撃沈した。加えて飛行場に対する爆撃や周辺海域への機雷の敷設も行われた。ヤップとウルシー環礁は31日に、ウォレアイ環礁は4月1日に攻撃が行われた。この間日本軍機による攻撃が行われたがアメリカの艦船に損害はなかった。

1944年6月第5艦隊はマリアナ諸島への侵攻で忙しかった。サイパン侵攻は6月11日空母艦載機による空襲で始まり続いて13日からインディアナポリスも参加した艦砲射撃が行われた。15日、アメリカ軍はサイパン島へ上陸した。また、15日、16日には硫黄島、父島、母島も空襲した。

19日、20日のマリアナ沖海戦でアメリカ軍は日本の機動部隊と交戦、空母3隻を撃沈して撃退した。

23日、インディアナポリスはサイパンに戻り火力支援を再開した。6日後テニアンに移動し海岸の施設を攻撃した。その間、グアムも攻略された。インディアナポリスは戦争初期にグアムが陥落して以来最初にアプラ港に入港した船である。その後数週間はマリアナ諸島で活動しその後次の攻略目標であるカロリン諸島西部へ向かった。9月12から29日にかけペリリュー島を砲撃した。その後アドミラルティ諸島のマヌス島へ向かいそこで10日間過ごした後メア島海軍工廠へ戻った。

硫黄島
オーバーホール後、1945年2月14日インディアナポリスはマーク・ミッチャー中将の空母機動部隊に加わった。16日、17日、機動部隊は硫黄島攻略支援のため関東地方を攻撃した。

攻撃後すぐに機動部隊は小笠原諸島に戻り硫黄島島上陸を支援した。
ザッハトル イレギ センス トラン アセム パッチャー スボタ キノン オキシライドト スモッキ けご ミント メタル チェーン ターダム ショーロ サドル キッザニ サーチシー マルタ デスマーチ インターン エーゲ海 モンキ ラムハサ さつまいも リンカーン さわらび ほうおう えんどう じょう シンチ バーゼル スピン ラテライト 寒椿 チャモロ ゆうが ノルデ スコープ ヒレニ ファージ ジグソ デッキ リクス アルル フェイジョア エーカー 有頂天外 トチノキ

沖縄
沖縄戦に先立ちアメリカ軍は損害を最小限にするため日本本土南部を空襲した。

インディアナポリスは1945年3月14日空母機動部隊と共にウルシー環礁を出撃し日本の沿岸へ向かった。3月18日から、機動部隊は九州の飛行場や呉軍港などを空襲し日本軍に大きな損害を与えた。

上陸に先立つ沖縄への攻撃は3月24日から開始され、インディアナポリスも海岸の陣地を砲撃した。3月31日午前7時10分に神風特攻の1機が艦尾に命中、スクリューの一部を破損した。慶良間列島泊地に移し、洋上で工作艦による修理が試みられたが、その最中工作員が外したスクリューを誤って海底に落としたため、4月5日に旗艦が戦艦「ニューメキシコ」に移され、メア島に修理のために戻った。
修理後、インディアナポリスは広島、長崎へ投下予定の原子爆弾用の部品と核材料を急ぎテニアンへ運ぶよう命じられた。任務の緊急性から修理後の調整期間に先立って7月16日サンフランシスコを出港し7月19日に真珠湾に寄港した。インディアナポリスは単独でテニアンに向かい7月26日テニアンに到着した。

テニアンに最高機密の荷物を届けた後、インディアナポリスはグアムに派遣され7月28日レイテ島へ向けグアムを出港した。インディアナポリスは単独で直線コースを取りレイテ島へ向かった。7月30日0時15分、北緯12゜02'、東経134゜48'の地点で日本海軍の潜水艦伊58(艦長:橋本以行少佐)が、九九式酸素魚雷を 初回発射3本、数秒おいて2回目発射3本の計6本の全門発射(こうして時差発射すると1回目の命中魚雷が開けた破穴に二回目の魚雷が入り込み更に奥深くで爆発するので致命傷になる)したうち3 本が右舷に命中、船体を鋭く貫いた魚雷が爆発。特に時差発射の2回目の魚雷が1発目が船体に開けた穴に入り込み奥で爆発、艦内第二砲塔下部弾薬庫の主砲弾を命中と同時に誘爆させ、同艦は夜空に大きく火柱を吹き上げると、艦前半部を海に突っ込みながら暫く浮いていたが、12分後に転覆、沈没した(米軍関係の記録や話しでは、破穴が2つだったことや 日本潜水艦の巧みな攻撃法に艦が弱いことを隠すためか、命中2発とされているが、生存した乗組員の間でも、また伊58潜水艦の記録でも、魚雷爆発音(こもったような振動するような短い音)は3回とされている)。

乗員 1,199 名のうち約 300 名が攻撃で死亡し、残り約 900 名は 5 日後に救助が完了するまで救命ボートなしで海に浮かんでいたが、水、食料の欠乏、海上での体温の低下、これらからおこった幻覚症状、気力の消耗などで多数の乗組員が死亡した。それに加えサメによる襲撃が心理的圧迫を強くした。その後映画等で、サメの襲撃が演出として過剰に語られたため、大多数がサメの襲撃の犠牲者になったかのように思われているが、おもな原因は救助の遅れと体力的限界が死亡の原因といわれている。救助された生存者は わずか316 名であった。[1] [2]

艦長チャールズ・B・マクベイ3世
艦長チャールズ・B・マクベイ3世(1944年11月からインディアナポリスの艦長)は生き残った。1945年11月、彼は軍法会議にかけられジグザグ運動を怠り船を危険に晒したとして有罪とされた。軍法会議のいくつかの事実は論議を呼んだ。アメリカ海軍自体が船を危険な状態に置いたという確かな証拠があった。また、伊58の艦長橋本以行元少佐はジグザグ運動をしていても撃沈できたと証言した。そして、アメリカは第二次世界大戦の戦闘で約700隻の船を失ったが軍法会議にかけられたのはマクベイ元艦長ただ一人であった。有罪になったことでマクベイ元艦長の海軍での経歴は終わり、死んだ乗組員の遺族に責め立てられ1968年に自殺した。

悲劇から50年以上後に、当時12歳で、映画ジョーズによってこのインディアナポリス撃沈事件に興味を持ったハンター・スコットによりマクベイ元艦長の軍法会議が誤審であるとの認識が提起され、2000年アメリカ合衆国議会はマクベイ元艦長の記録は「彼はインディアナポリスの損失に対し無罪である」ことを反映すべきだという決議を可決した。ビル・クリントン大統領もこの決議にサインした。

こぼれ話
この艦を艦隊旗艦に選んだレイモンド・A・スプルーアンス大将によると、硫黄島の攻略の折に「条約型重巡で設計が古くて安定性が悪く、魚雷の直撃を受けたらすぐに転覆して沈没するであろう」と幕僚に語ったと言われている。古い艦でエアコンは無く、扇風機も作動させるとその静電気がレーダーを妨害するとしてレーダー作動中は止められた為、赤道付近では蒸し風呂のような暑さで、煙突付近にあった参謀長カール・ムーア大佐の部屋は華氏100度以上(38℃近く)に達したという。旗艦としてはかなり劣悪な居住環境であったが、実際に乗艦していたスプルーアンスやその幕僚は結構快適だったと述べており、修理が終わったらまた旗艦として使いたいと希望していた。


2009年02月19日

ミランダ級/ホープ級

ミランダ級(-きゅう、Miranda class)は、アメリカのSFテレビドラマ『スタートレック』シリーズに登場する宇宙艦隊保有の架空の宇宙船のクラス名の一つである。

初出は『スタートレックII カーンの逆襲』のU.S.S.リライアントで、『スタートレック』で初めて見られるコンスティテューション級以外の宇宙艦隊の船である。少なくとも23世紀後半から使用されているが、エクセルシオール級やオーベルト級と同様に24世紀後半になってもいまだよく運用されているところを見ることができる。
ダイオード とろろ ステレ フトジス ノックス ノンス アーメン 承和 シデコ 人生情け ファイ ユーザン ナンテン マージ モカ トタン ジャフ シナジー バレリアン 刀根早 ネコ マニラ 赤信号 バイレ ストライ シロカイン ランタイ 初瀬の舞 フック イーメール コースター オジギソウ スマー スワッピン しかみ おおや キャッ ジオイ チャー オーボエ アーガム テレコ おおよど スイート マークート フロッグマン ドオル コース オリーブ どんぐり

宇宙艦隊の船によくみられる紡錘形の機関部(第2船体)がないところが特徴で、円盤状の船体の後部の両脇に、下向きに1対のワープナセルが取りつけられている。

また、ミランダ級には3つの異なる形状のものが確認される。1番目のタイプは、船体の後方上部に取りつけられたアーチ状の構造物を持つもので、その中央部に光子魚雷の格納庫と発射管を、両脇にフェイザーを装備している。2番目のタイプは、そのアーチ状の構造物を持たないものである。3番目のタイプは、アーチ状の構造物は持たないが、ふたつの構造物(用途不明)を船体の両脇に持つものである。

類型級であるソユーズ級 (Soyuz class) は、U.S.S.ボーズマン (U.S.S.Bozeman, NCC-1941) が、TNG「恐怖の宇宙時間連続体」(Cause and Effect)に登場した。こちらが運用されていたのは23世紀までである。撮影用模型は、上記のU.S.S.リライアントを流用し、改造して使っていた。

なお、クラス名はウィリアム・シェイクスピアの戯曲『テンペスト』の登場人物、ミランダに由来している。

ミランダ級宇宙船一覧
U.S.S.サラトガ (U.S.S.Saratoga, NCC-1867)
2286年、航行中に正体不明の探査船によってシステムを不能にされる(『スタートレックIV 故郷への長い道』)。
U.S.S.サラトガ (U.S.S.Saratoga, NCC-31911)
ウルフ359の戦いに参加、喪失(DS9「聖なる神殿の謎」(Emissary))。ベンジャミン・シスコが副長を務めていた。
U.S.S.シカー (U.S.S.ShirKahr, NCC-31905)
バルカンの都市のひとつであるシカーから。2374年、チントカにあるドミニオンの無人軌道武器プラットフォームを攻撃中に、攻撃を受け喪失(DS9「決意の代償」(Tears of the Prophets))。
U.S.S.シタック (U.S.S.Sitak, NCC-31859)
2374年、ディープ・スペース・ナインの奪還作戦中にカーデシア船の攻撃を受け喪失(DS9「ディープスペース・ナイン奪還作戦(後編)」(Sacrifice of Angels))。
U.S.S.テンアンモン (U.S.S.Tian An Men, NCC-21832)
中国の天安門広場から。2368年、遮蔽装置を使用したロミュラン船をスキャンするためのタキオン探知網形成に参加(TNG「クリンゴン帝国の危機(後編)」(Redemption, Part II))。2373年にカーデシアとの国境付近で消息を絶つ(カーデシアの攻撃を受け破壊されたものと推定される。DS9「プレゼント大作戦」(In the Cards))。
U.S.S.トライアル (U.S.S.Trial, NCC-1948)
2372年、ディープ・スペース・ナインがクリンゴンの艦隊による攻撃を受けた際、応援に駆けつけたハスター提督指揮の6隻からなる艦隊のうちの1隻(DS9「クリンゴンの暴挙(後編)」(The Way of the Warrior, Part II))。
U.S.S.ノーチラス (U.S.S.Nautilus, NCC-31910)
ジュール・ヴェルヌの小説に登場する潜水艦ノーチラス号から。2374年、チントカにあるドミニオンの無人軌道武器プラットフォームへの攻撃に参加(DS9「決意の代償」(Tears of the Prophets))。
U.S.S.ブラッテン (U.S.S.Brattain, NCC-21166)
アメリカの物理学者ウォルター・ブラッテンから。2367年、乗組員が次々と発狂を起こし、1人を除く全員が死亡する(TNG「謎めいた狂気」(Night Terrors))。
U.S.S.ヘリン (U.S.S.Helin, NCC-1692)
アメリカの天文学者エリナー・F・ヘリンから。2293年、ジェームズ・カークとレナード・マッコイを救出する試みに参加したかもしれない船の一つ(『スタートレックVI 未知の世界』)。
U.S.S.マジェスティック (U.S.S.Majestic, NCC-31060)
2374年、ディープ・スペース・ナインの奪還作戦中にカーデシア船の攻撃を受け喪失(DS9「ディープスペース・ナイン奪還作戦(後編)」(Sacrifice of Angels))。
U.S.S.ラントリー (U.S.S.Lantree, NCC-1837)
2293年、セクター22858のコロニーへ物資を輸送した(『スタートレックVI 未知の世界』)。2365年、船内に急速に老化を促進する抗体が入りこみ、乗組員が全滅。抗体拡散を防止するためU.S.S.エンタープライズDによって破壊された(TNG「D.N.A.」(Unnatural Selection))。
U.S.S.リライアント (U.S.S.Reliant, NCC-1864)
2285年、ジェネシス計画に用いるための惑星を探索中に、セティ・アルファ5号星付近でカーンらにより乗っ取られる。U.S.S.エンタープライズ NCC-1701と交戦し、破壊される(『スタートレックII カーンの逆襲』)。

ホープ級(Hope class)は『スタートレック』シリーズに登場する架空の宇宙船。惑星連邦所属、宇宙艦隊のスターシップである。

24世紀の宇宙艦隊の医療艦。大きな球状の第一船体と湾曲した第二船体(機関部)が特徴的である。第一船体は舷窓と緊急脱出ポッドで覆われており、青い長方形のディフレクターが付いている。第二船体の上にはシャトルベイがあり、船尾に向けて大きく開いている。2本のワープナセルは後方へ伸びており、上方へ反り上がる構造物によって第二船体に付いている。大まかなレイアウトは22世紀のダイダロス級に似る。

このクラスの宇宙船の公式な名称とされるのは「ホープ級」で、TNG最終話" All Good Things..."(「永遠への旅」)に登場したUSSパスツールの銘版に基づいている。にも関わらず、この船はしばしば「オリンピック級」として引用される。

このデザインはもともとILMのビル・ジョージが個人的趣味で作成したデザインで、スタートレックの公式な制作物ではなかったが、"All Good Things..."の制作中に新しいモデルが必要となった際「使えないか」と提供されたものである。このデザインについてジョージが「オリンピック級」の名称を使用していたため、雑誌「スタートレック・ファクト・ファイル」が記事の中でUSSパスツールを「オリンピック級」と紹介[要出典]、マイケル・オクダによる書籍「スタートレック・エンサイクロペディア」ですらパスツールを「オリンピック級」とし、「ホープ級」という名称はサイドノートにとどまっていたため、ファンの間ではこの名称が広まった。以後の書籍にも「放映時にはホープ級の設定だったのがオリンピック級に設定しなおされた」とするものもある。

スタートレックでは実写映像化した設定のみを正統な設定とする慣習があるが、映像作品中ではこの銘版もはっきりとは写っていなかったため、どちらが正統かについて一時混乱があった。後にテレビ番組「Journey's End: The Saga of Star Trek: The Next Generation」(1994年)インタビューの中でオクダが撮影に使用した銘版を示したことにより、この艦船デザインは「ホープ級」とするのが正統といわれるようになった。しかし、映像作品中で明らかでなかったことを理由に、一部では未だに「オリンピック級」を推す声もある。

ホープ級宇宙船の一覧
USSノーベル(NCC-55012)
名称の由来はダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベル。2374年のドミニオン戦争で活躍した。この際に乗員のリック・ビトルは戦死、マーガレット・クラーク、ミッチェル・グリーンは行方不明。この船名と登録は士官室セットと死傷者レポートに表示されているのみ。その姿は「Star Trek: Deep Space Nine Companion」でのみ見ることができる。登場話は下記のとおり。
DS9第143話"In the Pale Moonlight"「消された偽造作戦」
DS9第151話"Image in the Sand"「砂漠からの呼び声」
DS9第158話"The Siege of AR-558"「戦争の影?AR558攻防戦?」
DS9第175?176話"What You Leave Behind"「終わりなきはじまり」
TNG第155話"Interface"「インターフェイス救出作戦」
「USSノーブル」と言われているが、「スタートレック・エンサイクロペディア」でUSSノーベルのことであるとされている。行方不明のUSSヘラ(NCC-62006)の捜索を命令されているが、やはり画面上には登場していない。
USSパスツール(NCC-58925)
名称の由来は医学者ルイ・パスツール。Qによってピカードに示された「可能性の未来」の中で2395年、ビバリー・ピカード艦長により指揮されていた。中立地帯のデヴロン星系でクリンゴン戦艦に攻撃を受け、ワープコアを損傷し大破。乗組員と乗客は、ライカー提督のエンタープライズ-Dによって救出された。ただし、あくまでQによる「可能性の未来」の中での登場のため、当艦が実在することになるかどうかは不明。

2009年02月03日

第四次筒井城の戦い

畠山義就軍は、反対勢力にあった太田城を文明15年(1483年)8月13日より攻城した。この時「越智党」に属していた古市氏は大いに武名を上げ、同年9月27日太田城は落城した。勢いに乗った古市軍は、その2日後同年9月29日に筒井城も攻城した。この動きに即応して、十市、箸尾両軍は援護に回るべく、筒井城の南側にある結崎に陣取った。古市軍は調略を巡らし、箸尾軍は古市軍へ寝返り、筒井城は落城してしまった。
レオソーム ガードマン ドアマット おぜいゆ ウォッチ チュール ハシェマ タンギ シラン 手をつなご チュウゴ ブルーボ マンダ 散歩道 アカマツ 弾丸ファ スキーマ ロック マコロ 陽炎 長徳国内 セーフ ヒストン マナー プリーナ ルベリー レポオペ ゲエゲア ナンセン ジーンズ プレパレ マスト チェリー ペック ふき小松 トモグラ ショート とうげ シボレー トランジス じくど タッピ そうあん クーペ カタカナ ドラセナ シンバル ぞうげ すうぃ? プログ

筒井順盛軍は東山内へ落ち延びていき、十市軍は藤井方面に逃げ去って行った。この戦いで周辺の村は焼かれてしまった。

永正年間には大和国は赤沢朝経やその養子赤沢長経に抑えられていた。この時大和国の国人衆は協力して交戦した。「大和国人一揆」衆とも呼ばれている。ただ古市氏や狭川氏はこの一揆衆には加わらず赤沢朝経軍に加担したようである。しかし永正の錯乱がおき赤沢朝経、赤沢長経軍は京に退いていくと、大和国の覇権をめぐり再び争い始める事になる。それまで越智党と戦術的に和議を結んでいた筒井党であったが、もともと宿敵関係にあった越智氏、古市氏が永正13年(1516年)10月に攻城して、筒井順盛軍は敗れ去る事になる。

この頃、越智党には畠山義央が、筒井党には畠山義稙が加わったが、翌永正14年(1517年)8月に両者の間で和睦が成立すると、筒井、越智、古市氏の間でも和議が成立した。

その後大和国は二転三転する。越智、古市氏の間でも和議が成立し、筒井順盛はようやく大和国の派遣を握れる段になるが、突然1518年(永正15年)柳本賢治が乱入してくると頓挫してしまう。しかしその柳本賢治が中嶋の戦いで暗殺されると木沢長政が大和国北半国を治める事になった。しかし木沢長政も太平寺の戦いで討ち死にすると、今度は十市遠忠が台頭してきて筒井順昭は十市遠忠と大和国の覇権をめぐって競い合った。しかしその十市遠忠も1545年(天文14年)に死亡すると、念願であった大和国の制圧に成功した。

しかし、悲運にも苦労して大和国の覇権を勝ち取った筒井順昭であったが、同年に急死してしまう。28歳であった。家督は筒井順慶に移ったがまだ幼少であったため、松永久秀が1559年(永禄2年)に大和国へ侵攻し、筒井城は永禄8年(1565年)11月に松永久秀から攻城をうけ、炎上してしまった。その後東大寺大仏殿の戦いがあり翌永禄9年(1566年)6月-11月には取り戻すが、永禄11年(1568年)10月には再び松永久秀軍に占領されてしまう。

この時の筒井氏、松永氏の攻城戦(第六次筒井城の戦い以降)ついては筒井城の戦いも参照。
松永久秀方に移った筒井城は多聞山城、信貴山城に次ぐ重要拠点して用いられた。これは郡山城を攻める拠点として、また多聞山城と信貴山城のルートを確保するため繋ぎの城、支城であった。この時の松永久秀方の史料には筒井城の事を「平城」とだけ記されている。

その後元亀2年(1571年)8月、松永久秀軍と辰市城の合戦で筒井順慶軍が勝利すると、筒井順慶の力は侮れないと見たのか、明智光秀の仲介により織田信長に帰服を許し筒井城を回復した。1579年(天正7年)筒井城を大改修しようと多聞山城の石垣を筒井城に移したが、織田信長の「大和一国破城命令」により廃城とし、居城を郡山城に移した。翌天正8年(1580年)8月17日の事であった。

歴代城主
筒井城の歴代8代城主 何代城主 初代城主 2代城主 3代城主 4代城主
城主名 筒井順覚 筒井順弘 筒井順永 筒井順尊
何代城主 5代城主 6代城主 7代城主 8代城主
城主名 筒井順賢 筒井順興 筒井順昭 筒井順慶

城郭
筒井城の推定城郭部分/ 国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を元に作成。筒井城は、筒井集落全体を囲む外堀とその内側にある内堀から構成されており、内堀で囲まれた部分が「シロ畠」と言われ、周囲と比べて一段と高くなった畠地となっている。この部分がちょうど筒井城の中心的な場所であったと思われている。堀の内側には土塁があり敵の侵入を防いだ。筒井城は大和郡山市の教育委員会が過去6回以上の発掘調査を実施、土師皿が一括陶器された状態で検出され、西側では幅12m以上、深さ2m以上の堀が検出されている。この堀は16世紀中ごろで石垣を持たない城としては最大級と考えられている。更に城の中心部からは7世紀はじめの大きな建物跡や4世紀の大きな溝が見つかっており、古くから重要な場所であった。また発掘調査から鉄砲玉が堀斜面より出土した。大きさは1.1cm、重さは7.68gの鉛製で、1559年(永禄2年)の筒井城落城の際に使われたとみられている。『筒井氏と筒井城』では「松永久秀は筒井城を最新兵器を用いて攻めたかもしれない」と解説している。

蓮根畑/筒井城の中心部
推定土塁跡/菅田比売神社の境内にある
現在筒井城の中心部は蓮根畑になっている。蓮根畑は「シロ畠」(田)をぐるりと取り巻いており、蓮根畑は筒井城の堀跡と推定されている。平城が城として使用されなくなって、耕地に使用する場合、本丸の周囲は低くなっているので田として利用しやすい。筒井城の場合も昭和初期以前は田であったようで、これが蓮根畑に変化したと言われている。この「シロ畠」には現在民家は建っていない。地元の人からは「筒井の殿様が住んでいたので遠慮して家を建てていない」と伝承されている。『筒井氏と筒井城』によると、これは筒井城に限った事ではなく、中心部には民家は建てないという風習が広く見られる、と解説している。

堀跡/菅田比売神社の東側
堀跡/筒井集落の北側
筒井集落の北側、南東側には現在でも外堀跡があり、また菅田比売神社の東側には幅約2mの内堀跡の遺構が良好に残っている。また菅田比売神社の境内の南側には、若干高くなった部分があり土塁跡が指摘されている。この菅田比売神社は筒井城があった頃から、位置を違えず鎮座していると考えられている。

北市場、南市場
城内には曲輪だけが存在したわけではない。「シロ畠」の東側一帯に北市場、須浜池の南側に南市場という字名が残されている。これは城内を縦貫している吉野街道沿いに存在していたと考えられている。このような街道と市場を城内に取り込むという事は、それだけで規模が大きくなることを意味する。普通、街道は誰に対しても通行できるが、城内に街道がはしっていると通行人に対して何がしかの規制が加わる事に繋がると考えられている。また市場やその住宅が城内にある事で、領主の保護が受けられるが、反面敵からの攻撃を受けたさい、防備の薄い市場から攻撃されやすい。『経覚私要抄』によると第三次筒井城の戦いで筒井城が炎上したさいに、古市氏により市場から放火されたようである。

鬼門
京都御所北東隅の鬼門落し
江戸城の鬼門除け/寛永寺の清水観音堂
筒井城の東北隅で水堀が多折れに屈曲している。他でも屈曲している部分はあるが、連続して屈曲しているのはここだけである。このような曲輪の構造をしている理由として『筒井城総合調査報告書』では、防御を目的として意図的に設けられた
元々の自然地形に沿って造られた
風水による鬼門落しに相当する
が考えられるが、これらの可能性について検討している。

そもそも鬼門とは、中国で発展した地相術で、遣唐使によって日本に伝えられたが9世紀末に遣唐使が廃止になってからは、日本独自に変化し陰陽道(風水)の一つ「鬼門を嫌い」を除ける風習があったと思われている。戦国時代の風水とは武士のものであって、陣取りや合戦の日時を風水によって決められる事もあった。

鬼門除けのひとつが「鬼門落し」で、建物や敷地の北東隅を欠くことで、北東隅を造らないようにしたもので、この「鬼門落し」で有名な施設は京都御所である。ほぼ正方形になっている禁裏であるが北東隅の塀だけが欠けている。また近世城郭では鹿児島城、日出城の鬼門櫓、江戸城の寛永寺や筋違門、彦根城の中堀における多折れ構造など中世の城郭でも数多くの「鬼門落し」が見られる。しかし、これらの例も風水のみではなく防備施設と兼ね備えている城々もあった。

そこで筒井城だが、五折れ構造になっているが、北東部には虎口が無く、隣接する東口、北口の両方の虎口にも横矢は掛からない為、防御のためではないと思われる。また、この部分には河川の氾濫を城内に及ぶのを防ぐため土塁を設けたとしても、多折れにする必要が無く地形に沿って丸くするか、あるいは直線に築くのが自然である。従って『筒井城総合調査報告書』では、防御や地形ではなく「風水のみに関わるもの」と結論づけている。

2009年01月20日

城や(江戸の)屋敷を築く際

江戸時代、将軍あるいは大名は、城や(江戸の)屋敷を築く際に庭園内を回遊することができる廻遊式庭園を盛んに築いた(大名屋敷の庭園に代表される池、築山を中心にした回遊できる庭園は池泉回遊式庭園といわれる。大名庭園を参照)。
例:小石川後楽園(東京都)、兼六園(金沢市)、後楽園(岡山市)、栗林公園(高松市)、水前寺成趣園(熊本市)など
ティーン プレー ライフ ヒオウ パワー ショー ストーン けん蔵 オキナ ブログパ モーダ みんな ひやまぐ レベル ヒスパ 浪花 ラリエット ランニ ペース 小道 マルドゥク ファンシ クニック フード人気 カンク キャベツ レンドラ 十二支 シロビキ デンド オセロ マット 温海かぶ ダークマン ラタナス アイべりー ノガミー ハイビー ふじなんど ツライ チムール スチロー ニング テスター ナンヨ セファリン アクビラ イザベラ きざら ミルク

近現代
明治時代の東京では江戸時代の大名屋敷とそれに付随する庭園が次々と壊され、この現状を目の前にして小沢圭次郎は職務の余暇として古い庭園の記録と資料収集を行っており、退職してからはさらに庭園研究に励み、1915(大正4)年『明治庭園記』を発表するに至る。収集した資料は800余巻に及んだ。小沢は単なる庭園史の研究家でなく自らも日本庭園を作庭し、天王寺公園や伊勢内宮・外宮の外苑、栗林公園の修景のほか、ロンドンで開催された日英博覧会に出展された日本庭園、また自身の故郷三重県桑名市では1928年に松平定信百年祭にともない造られた九華公園などの作品がある。また庭園研究のほか、漢学への造詣が深く、漢詩文集『晩成堂詩草』15巻を書いている。その小沢と激しい論争を展開した美術史出身の文学博士横井時冬は「園芸考」「本阿弥光悦」「小堀遠州」などを著した。
明治後半期の東京に数多く建てられた新興ブルジョアジーたちの大邸宅庭園の様子は近藤正一『名園五十種』にも紹介されている。同書で折衷式の庭の様子がよくわかり、渋沢栄一の邸宅愛依村荘は広大な敷地の中に日本家屋と洋館が建ち並び、洋風と和風の庭園、また茶室と茶庭を兼ね備えていることがわかる。また京都武者小路一門の茶匠で造園家の磯谷宗庸設計の三菱深川親睦園日本庭園内の洋館はジョサイア・コンドルが手がけたが、コンドルはこの後和風住居や庭園と洋館・洋風庭園を並存した旧岩崎邸庭園や三井網町別邸、旧諸戸清六邸、旧古河庭園(和風の部分は小川治兵衛作)などを手がけていく。
山縣有朋が1896年京都の南禅寺の西に造った無鄰庵も、さほど広くない敷地をうまく使って東山を借景とし、疎水からひいた流れが芝生の間をぬっている。施工にあたった小川治兵衛(植治)は、その後、京都の南禅寺近辺に野村碧雲荘、平安神宮神苑、八坂神社神苑、円山公園、長浜の慶雲館本庭など数々の名勝庭園をつくった。植治の流れは甥の岩城亘太郎ほか、各地に受け継がれていく。
植治とともに扇湖山荘を手がけた大江新太郎は1924年『アルス建築大講座』に掲載された「作庭意匠」と題する論考でほかの建築家の視点、庭園鑑賞に関してではない、庭園設計にいたる方法論を展開している。掲載された図面には園内要所からの眺望視界線が記入されているほか日本庭園の分類を従来の築山、平庭、露地の3つに壷庭と崖庭を加えていて、崖庭の好例として三仏寺投入堂を挙げている。
写景でなく、自然の景趣を写そうとするものも現われ、作庭者の主観の強い造形的、装飾的な庭園となった。画家の山元春挙と造園家の本位政五郎が造った大津市の蘆花浅水荘は文人風の庭といわれ、これを継いだという小島佐一にも京都市の川田邸の庭があるが、昭和の初め頃に飯田十基(寅三郎)が推進した雑木の庭は、十基自ら「自然風」とよび(十基は他を「作庭式」と呼んだ)その後小形研三に継がれ、都市の人工化とともに急速に広まっていった。飯田十基らが植治と異なるのは、雑木という全国の山野に自生して、強健で種類も多く、移植しやすい材料を求め、それ自体を原寸大で自然に見せる手法を確立した点である。その後、材料調達・運搬の容易さ、原野という参照項の手近さ、選定方法の確立、未成木の植栽方法の定式化によってこの方法は伝えられ、後には山取した雑木を畑に植えて流通をも確保している。飯田十基の自然風のこうした庭は鉄やガラス、コンクリートの建物にも広大な敷地にも狭いそれにも不調和を見ない形式であった。
大正期には建築界では都市と住宅のあり方は新しいテーマとして浮上し、生活改善運動の一環として住宅庭園にも関心が高まる。近代建築家による庭園論では作庭記に代表される視覚的な庭園評価とは異なり、機能性や空間性を重視した視点が打ち出されている。当時生活改善同盟会による6つの網領の中に庭園が項目としてあげられ、さらに1919年に日本庭園協会が設立されることとなる。協会を中心に古庭園の研究や、同時代の建築家や造園家、作庭家らが新しい庭園を模索した。古宇田実は庭園関連の記事を精力的に執筆し、保岡勝也は茶室や数奇屋建築と庭園を紹介する書物を多く出版している。またこれと平行して庭園の研究を開始した重森三玲は、全国に現存する庭園を実測し、また昭和に入ってからは寺院に多くの枯山水の庭園をつくり、寺院における自然主義的な庭園を批判して象徴的な庭園を打ち立てた。